にしき的フォントを更新しました (Version 2.15) 。
内容は以下のとおりです。

  • キリル文字を増補
  • 「Phonetic Extensions」ブロックの文字をひととおり追加 ; ウラル音声記号 (UPA) など
  • 私用領域にスースのアルファベットを追加(U+E630〜)
  • 私用領域にヴィジブルスピーチを追加(U+E780〜)
  • 私用領域に山本多助によるアイヌ語表記用の仮名を追加(U+F476-F47F)




キリル文字については、アブハズ語の旧正書法の文字やらなにやら非スラヴ語系の用字をいろいろ追加しまして、Unicodeに存在するキリル文字関係はひととおり網羅しました。現在のところ提案段階にあるいくつかの文字もついでに収録しています。


つづいて私用領域に追加したものについてですが、スースのアルファベットというのは米国の児童文学作家であるスース博士 Dr. Seuss (本名 Theodor Seuss Geisel) の手になる絵本『On Beyond Zebra!』(1955)*1に登場する一連の架空文字のことです。
On Beyond Zebra! (Classic Seuss)
よくアルファベット絵本などと呼ばれるもので「Aは Ape のA、Bは Bear のB、 Cは Camel のC、……」のように動物などの名前に絡めて文字に親しませようとする趣旨のものがありますが、この『On Beyond Zebra!』という絵本はそういったもののパロディの体裁を取った一種のナンセンス作品です。
普通のアルファベット絵本では26文字目の、たとえば「Zは Zebra のZ」のようにシマウマがいるページまできたら終わりになってしまいますが、この本ではそこで止まろうとせずに、シマウマのZを越えた先にさらに広がる摩訶不思議な世界へと乗り出してゆきます。

「Z のところで立ち止まりたければ、別にそれでもいいさ。誰もが Z で終わりにするんだもの。
でもね、ぼくはちがうんだ。
Z で終わってしまっては決して書き表せないものが、ぼくの行くところには見つかるんだよ。
きみは友達だから教えてあげるよ。
いいかい、ぼくのアルファベットはね、きみのアルファベットが終わったところから始まるのさ!」


        ―――― 『On Beyond Zebra!』より・拙訳

そんなわけで、ページを進める読者の前には奇妙な名前の奇妙な動物と、そして奇妙な文字とが次々に立ち現れます。
英語圏の子供たちの中には、この絵本が人生で初めての「架空文字」との出会いだった、という人も今なお少なくなかろうと思います。

さあ、ZebraのZを越えた先へと、
探検しよう!
コロンブスのように!
新たな文字を見つけるんだ!


        ―――― 『On Beyond Zebra!』より・拙訳

文字コード的なものに関心のある向きにしかおもしろくなさそうなトリヴィアをひとつ付け加えておくと、UnicodeLast Resortフォント (ある文字のグリフを収めた満足なフォントがないときにブロック名を代替表示するフォールバック用フォント) において「Private Use Area」ブロックすなわち私用領域にあてがわれている代表字がこのスースのアルファベットのうちの WUM という文字だったりします。



その次のヴィジブルスピーチですが、これは電話機の発明者アレグザンダー・グレアム・ベルの父親にあたる音声学者アレグザンダー・メルヴィル・ベル Alexander Melville Bell が考案した一種の音声記号です。「視話法」と訳されることもあるようです。
聴覚障碍者が音声言語を学ぶ助けになるようにと著書『Visible Speech』(1867)の中で唱えられたもので、発音器官の状態を図案化するかたちで各々の記号が表現されています。



最後のひとつはアイヌ語表記用の仮名です。
アイヌ語の文字表記は近世以降さまざまな方式が試みられてきたのですが、これもそのひとつでありまして、アイヌの長老でありアイヌ文化の保存に尽力した山本多助アイヌ語同人誌『アイヌ・モシリ』(1957-1965)の中で「アイヌ文字」*2と称して呈示した独特の創作仮名文字で、チャ、チュ、チェなど従来の仮名表記では2字になってしまう音節を1字で表記できるように考案されたものです (このあたりの発想は船津好明の「沖縄文字」と共通しています) 。
しかしながら『アイヌ・モシリ』がきわめて少数しか発行されなかったため世人の知るところとはならず、また「アイヌ文字」自体が感覚的に理解しやすいとは言い難いものであったこともあり (実際、どういう根拠でこのような字形になっているのか判断しかねるものが多いです) 、普及には至りませんでした。

そんなわけでほぼ個人文字の域を出ないようなマイナーなものではありますが、アイヌ語文字表記の試みとしてアイヌ人自身によって創出されたという点で意義深かろうと思いつつ、当フォントに収めおく次第です。

*1:邦訳は刊行されていないようです

*2:いわゆる神代文字のひとつにも「アイヌ文字」と呼ばれるものがありますが関係ありません